2009年7月30日
ヌエバ・グラナダの独立からコロンビア共和国の成立まで
1832年に亡命先からサンタンデルが帰国し、ヌエバ・グラナダ共和国の大統領に就任した。保護貿易により産業が発展し、奴隷貿易が廃止され、公教育が拡充するなど連邦的な政治が進んだ。1840年代にはコーヒーが栽培され始めた。この時代にコロンビア時代からから続く中央集権派と連邦派が、保守党と自由党に組織し直された。1849年には商人や職人、新興ブルジョワジー、小農などの連邦派が自由党を結成し、これに対抗して貴族や大地主、教会などを支持基盤に保守党が結成された。これによりコロンビアは現在まで続く二大政党制が確立されたが、寡頭支配体制の維持という点で両党は共通していた。
1849年から1853年まで大統領を務めたホセ・イラリオ・ロペスはイエズス会の追放、教会財産の没収、黒人奴隷の廃止などの反教会、自由主義政策を採った。以降1880年までコロンビアでは自由主義政権が続いた。1855年に「手工業共和国」と呼ばれたホセ・マリア・メロ将軍の政権が打倒されると、保護貿易は廃されて自由貿易が導入され、育っていた工業の基盤が壊滅した。自由貿易の導入によりイギリス資本による経済支配が進んだ。
1857年には自由主義者マリアーノ・オスピナ・ロドリゲスが大統領になり、1858年にはロドリゲスの手によりグラナダ連合が発足した。ロドリゲスはイエズス会の帰国を認めて教会特権を復活させ、中央集権化を図るなど保守化したため、1861年に自由主義者だったカウカ州知事のトマス・シプリアーノ・ド・モスケラが蜂起し、7月にはボゴタに入ってロドリゲスを追放した。モスケラが政権を握ると、1863年に成立したリオ・ネグロ憲法では自由主義的な内容が採択され、グラナダ連合は各州が外交権を持つ8州からなる連邦制国家、コロンビア合衆国となった。この時代にボゴタでは科学や文芸が発展を見せ、ボゴタは「南米のアテネ」と呼ばれた。
1880年に保守派のラファエル・ヌニェスが自由党右派と保守党に推されて大統領になると、ヌニェスはスペインに独立を承認させ、国立銀行を建設して経済の安定を図った。ククタ周辺でのコーヒー栽培の拡大により、コロンビアの主産業となり、鉄道網も拡大していった。
1884年に再選されたヌニェスは連邦制を廃止しようとし、政治と教育にカトリック教会が参加することを認めたため、1885年に自由主義者が反乱を起こした。ヌニェスがこの内戦に勝利すると、1886年にリオ・ネグロ憲法は放棄されて、カトリック教会と国家の同盟、中央政府の権限拡大、大統領の任期を6年に延長、中央集権主義などを盛りこんで教権の強い中央集権的な憲法改正がなされ、コロンビア共和国が成立した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
コロンビア共和国の成立にはいろいろ大変な出来事がありました。
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